タコ社長の東村山、メルボルン、セブ、放浪日記

東京で8年弱のサラリーマン生活を自ら降りて、33歳でオーストラリア移住。日本語教師、留学センター経営。2012年からフィリピンのセブ等で英語学校、日本食レストラン経営。1952年生まれ。

「イボ痔?

沖縄出身で豊満に波打つ体の金城さんが、カウター越しに少し大き目の声で聞いた。

「イボ痔じゃないの。異邦人よ。」

私と早苗はカミューの本が映画化され、マルチェロ・マストロヤンニが主演している「異邦人」の話をしていたのだ。「今日、ママンが死んだ。」で始まるこの作品には少なからず影響されていた。

一浪して大学にかろうじてひっかかり、予備校生活から開放され大学の入学式を翌日に控えて浮かれた気持ちで池袋界隈をさまよっていた。狭い路地裏を歩く。


20メートル位歩くと左側に、足早に歩いたら見過ごしてしまいそうな小さな看板で「水着喫茶」とある。何だろうなどとは思わない。男の直感が働く。もうただいま浪人中じゃない、大人だ。大きく躊躇しながらも階段を下りていた。

壁は黒くてよく先が見えない。「いらっしゃいませ。」太めの声でちょっと間延びしたような女性の声がした。これが金城さんだった。長髪を奇麗に分けた背の高いボーイさんもいる。ホタテマン安岡力也がいたシャープフォークスから抜け出たような男で、私はこの手の男には絶対に勝てないという思いが先行してしまう。

生暖かいすえた空気が、下水の鼻を突く臭いに混ざって顔を撫でていく。入った所が二階になっていて、更に下に客席がある。二階の一番奥に壁を背にして座って一杯500円のコーヒーを注文した。探せば60円コーヒーの店も大塚辺りにはまだあった頃だ。

下の階から、ちょっと甲高い女性の声と初老の男性と思われる枯れて下品な笑い声が、背にした壁を伝わって私の所に届いてきた。

女性は二人しかいないようだ。ヒールの高いサンダルにオレンジ色のビキニのもう一人の女性が、けだるく音をたてながら階段を上がって来る。カウンターの女性とは正反対の清楚な感じの人で、その場違いな女性を見つめてしまった。

何かを期待して入って来た訳だが、期待して来る方が馬鹿だという思いの方が勝っていたのも事実だ。その女性は、注文した真っ黒いコーヒーを持って来て私の反対側に座った。

「ここ、お客さんの隣に座る場所じゃないの。本当はぜんぜん座らなくてもいいの。」
「はい。」
薄暗く、場末の臭いが漂うこの喫茶店の中に5人の人間しかいない世界がある。外はまだ明るい。

「学生さん?」
「そう。」
「私、早稲田の教育学部。貴方は?」
「言うような学校じゃないよ。明日が入学式だから正確にはまだ学生じゃない。」

なぜか彼女は早稲田を強めて言った。本当はこんな所で働く人間じゃないと言いたかったのだろうか。彼女は早苗といった。

4時半に入ったその喫茶店に6時間もいた。ほとんどは早苗との会話だった。その間、彼女は何回か下の階の他のお客に話しに行った。マメな人だ。そんな時は金城さんと話した。

春だったが、水着姿でちょっと寒いという金城さんに自分の紺のカーデガンを貸してあげた。私のカーデガンがほとんど素肌の上に羽織られて喜んでいるように見えた。金城さんは、太いちょっと低い声で下品に笑ったりしていたが、ねは優しいお姉さんのような感じがした。

下の階の男性の、歯を鳴らす音とスースー息を吸う音が気になる。早苗が戻ってきた。

「私、大学の講師と親密になってしまって、今休学しているの。親が心配して見合いをさせられてね、今はその人と婚約中なの。」

19の春の私にはとても及びもつかない話が巡る。

「でも、その人とのこと実は悩んでいるの。」

聞きもしない、聞いてはいけないような話しが続いて出る。気だるい雰囲気の中で、二人の会話は途切れずに妙に弾んだ。こわい程気が合う。大学に受かり、同時に彼女までできそうだ。

「貴方は19だから、私はあなたにとって金の草鞋よ。大切にしてよね。」
初めて会った私にこういうことをいう女性を信じるほど初心ではないが、まるで舞台設定のようなその薄暗い店のなかでは、言葉が勝手に独り歩きしても咎めるものもない。

間近に迫った沖縄返還の話しの時は、沖縄出身の金城さんも席に来た。暇な喫茶店だ。でもそのお陰で私はこんなに楽しんでいられるのも確かだが。

「あさって暇? 新宿御苑行こうか。」

私はできるだけ平静を装おうとしていたが、心はまったく自制できない。

「あさってね、、、。うん、いいよ。」


翌日の4月14日は入学式。初めて着た茶系のジャケットの袖が短いような気がして終日落着かない。でも本当は、早苗のことが気になっていて落着かない。オレンジ色のビキニ、そしてあの鼻の奥をくすぐるような香水と下水の臭い。オリエンテーションの教授の口だけがパクパクと動いて音が伝わって来ない。「俺は大丈夫だろうか。」しっぺ返しが恐かった。

翌日、改修中の仮設池袋駅二階で早苗と会う約束をしていた。待ち合わせ場所から離れた所を歩いて行く早苗を見つけた。スカイブルーのカーデガンにジーンズで余計細く見える。軽やかな足取り。私はどうしてか声をかけられずに見送った。今、私に会うためにあんなに可愛い女性が歩いて行く。これは現実じゃないのではないか。予備校生活のいじけた感覚が骨にまで染み付いていた。

早苗との付き合いが一ヶ月を過ぎた。大学生活も落ち着き始めてきていた。

5月15日は沖縄返還の日だった。いつも通り店に寄った。金城さんはいつになく明るかった。

「タコ君も、パスポートなしで沖縄に行けるのよ。」
私は、1ヶ月で店の常連になっていた。高いから店で会わない方がいいとも言われたが、払わなくてもいい日も多かった。店を仕切っている金城さんがそうしてくれた。

「私って、貴方が思っているような人間じゃないの。」
早苗はこの1ヶ月の間に何度かそう呟いた。私は、その度に聞こえないふりをしていた。その時のオクターブ低い声が耳から離れない。

「私の誕生日は10月25日。タコは?」
「6月13日。」
「じゃその日に一生の思い出を作ろう。」

私は息が止まるような衝撃をおぼえた。こういうことは、もう少しロマンチックな設定で言って欲しかった。

「恐いの?大丈夫、心配しないで。」

今じゃ、信じられないくらいの自分だった。怖かった。

早苗は、約束の6月13日の調度1週間前に忽然と姿を消した。

その更に1週間前から急に彼女が別れを口ずさむようになった。訳が分からない。理由は言わない。会う度に別れ話が出るので会いたくなくなった。一体、私が何をしたのか。この恋は彼女の都合で始まり、そして彼女の都合で終わらせられようとしているのか。これが大人の恋なのか。

何故か私は毎日のように「エーゲ海の真珠」を聴いて早苗を想った。出だしを聴いただけでもう両膝を抱えていた。

早苗がいなくなった翌日早苗の兄という人から電話があり、西武池袋線東久留米の喫茶店で会った。

お兄さんは、ちょっとやくざっぽい感じがしたが物腰は柔らかく丁寧だった。唯、声が低く威嚇するように響く。僅か二ヶ月の付き合いで、二人以外には金城さんしか私たちのことを知らない。誰も証しをしてくれない恋だったが、突然親類縁者が現れた。

「昨日から行方がわからなくて。机を探したらタコ君の電話番号が書いてあったものだから、迷惑だったろうけど。」
「いいえ。」
借りてきた猫以上のネコが似合っているように下を向いて答えた。どんな展開になるのか不安でしかたなかった。短刀でも出てくるのかとさえ思えた。

しかし実際には、お兄さんの役に立つようことは何も言えなかった。実のところ、私は彼女のことを何一つ知らなかったのだ。早苗が働いていた店の名前を言った時、お兄さんは知っていてちょっと憤慨したように見えた。

「タコ君は、6月13日生まれですか。早苗のノートに大きく誕生日と書いて赤丸がしてあったもんで。」

私はもうそれ以上そこにいたたまれず、お兄さんより先にコーヒー代も払わずに一礼して店を出た。胸が苦しくしばらく電車に乗れなかった。

それから1度だけお兄さんを見かけた。池袋のあの店の路地の反対側で。二人共、もしかしてと思い歩いていたのだと思う。私の重い「5月病」は当分癒えそうになかった。身も心も病んでしまった。

8月16日、家族で夕食を摂っていた時に早苗から電話があった。

「元気でやっているから心配しないで。本当にごめんね。もう一生会えないと思う。探さないでね。元気でね。」

私も二言、三言話した。どうでもいいことを言ったと思う。すべてが歯がゆくまったく自分の言葉が早苗に届かない。

大学生活はけだるく進んでいっていた。

体育の授業にダンスがあり、私は運動量も少ないからいいと思い取った。その年の12月8日の開戦記念日は金曜日でダンスのクラスが最終科目だった。笑顔がいい。明るくて楽しい学生とペアでダンスをした。ジョークが切れない。クラスが終わってこの可笑しな女の子と一緒に帰ることになった。

「まだ名前聞いていなかったね。僕、タコ。」「私、高橋。フランス科、名前は早苗。」

もう一つの終わりの始まりだった。

さなえちゃん
 
大学ノートの裏表紙に さなえちゃんを描いたの
一日中かかって 一生懸命描いたの
でも鉛筆で書いたから いつのまにか消えたの
大学ノートの裏表紙の さなえちゃんが消えたの
もう会えないの もう会えないの 二度と会えないの

古井戸の、こんな歌が流行っていた。

だから私は今でも、オレンジ色のビキニに弱く、思わず手が出てしまいそうになる。

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「もしもし、キャシーをお願いします。」
大学3年の時アメリカのシアトルで2ヶ月過ごした。日本から一緒に行ってお世話になったジョンソンさんの姪のキャシーに、お世話になったお返しに、などと思ったわけではないが、デートを申し込もうとして、1時間くらい電話の受話器のそばを行ったり来たり行ったり来たり。
思い切って掛けた。お母さんが出た。こういう時に本人以外が電話に出る確率は、掛ける側の下心の度合いと正比例して高くなる。お母さんがキャシーを呼んでいる。彼女が受話器にゆっくり近づいてくる足音まで聞こえてきた。
どうやらこうやら、彼女が夏休み中にバイトをしているファーストフードの店がはけてから会う約束ができた。私は、22歳でキャシーは18歳だった。
「店長が、いやらしい人で、話すときに肩や腰に手を回してきたりするの。」
私は、基本的にはこういう店長みたいな方々はあまり好ましいとは思わない。しかし、当時はそんな悠長な気持ちでは収まらなく、とんでもない男だと激昂してしまった。
「でもね、時給は安いけどチップがいいから我慢してやってるの。」
やさしい英語でゆっくりとキャシーは話してくれた。私は、輝くばかりの笑顔を時々見せながら、腰まで素直に伸びた金髪の長い髪を揺らすキャシーに魅せられて、思わず手を伸ばそうとして店長の話しを思い出し躊躇した。
「日本じゃどうか知らないけど、アメリカでは最初のデートはたいした意味がないの。だって、好きかどうかなんて、付き合ってみないと分かんないじゃない?だからデートするのよ。」
デートしただけで、文金高島田なんかがストレートに想像されてしまうような当時の私には、いかにも新鮮な考え方で感動さえおぼえた。と同時に、今会っていることの意味は、彼女の側からするとそんなにないんだとやや興ざめした。
そうだったんだ。じゃあんなに緊張して電話しなくてもよかったんだ。アメリカ人とは、なんと合理的な考え方をする人種なんだろうと思った。
私の何も考えずにやたらめったら異性をデートに誘う習慣の原点は、どうやら前の大戦で敗れたこのアメリカにあったようだ。
次回のデートは、キャシーの通っている高校のキャンパスツアーだった。
「私ね、高校のチアーリーダーやってるのよ。見てみたい?」
私は間髪を入れずに素直に「はい。」
ところがどうだ、マーラはブルーマとかいった格好ではなかったが、普段着でいきなり芝生の上で踊りだしたのだ。
あっけに取られながらも,笑顔で見ていた私だが、それがいつまでたっても終わらないのだ。その内、自分の顔がこわばってくるのがわかった。笑顔じゃなくなってきている。キャシーをそこに置いて、立ち去りたくなった。
彼女とのデートはこれ以降はなかったが、異文化交流の勉強にはなったと思うし、変な度胸も少しはついたとは思う。
アメリカ人というのは、本当に臆面がない方々総体的名称なのだということは肝に銘じさせてもらえた。


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オーストラリア生活の第一歩は、シドニー舞伎町と言われるキングスクロスから始まった。1985年の6月。

ここの目抜き通りはそんなに長くはないが、当時から表に椅子とテーブルを出しているカフェがあった。今でこそ当たり前の光景だが、36年前は珍しかった。


将来の見通しは全く見えない毎日だったが、とりあえず1日24時間自由に使える日々が与えられた。サラリーマンも辞め、日本語教師になる勉強も終え、日本から離れて形だけは全くの自由。

シャワー、トイレ共同の簡易ホテルに投宿して、朝7時に起きる。そして、シドニーで一番人気のある新聞Sydney Morning Herald を買い、宿から2分も歩かないところにあカフェでおもむろに新聞を見る。読むのではなく見る。そして、カプチーノとトーストの上に目玉焼きがのっている簡単な朝食をとる。因みに、トーストに目玉焼きをのせて、ナイフとフォークで食べるという食べ方は、アメリカのマナーに比して本当に新鮮に思えた。

6
月の冬のシドニーだが日が出ると結構暖かい。サラリーマン時代に、こんな余裕を感じことがあっただろうか。誰にも何も言われない時間がゆっくりと流れていく。そして、誰とも話さない日も静かに過ぎていく。へたすると、2日くらい誰とも話さない日もあった。

本当にこの国は自分が思っている、恋している国なのだろうか。こんな自分を受け入れてくれる国なのだろうか。そんなことを確かめる第一歩を、シドニーで踏み出した。日本で知り合ったオーストラリア人達にも会ってみたい。一番大切なのは、この国、ここの人たちとの相性だ。国の美しさなどではない。

こうして、毎日ゆっくりと朝食をとりながら、シドニーでの生活を肌身で感じたかった。あいその良くないウエートレスにも慣れないといけない。英語が通じなくて、何度も同じことを言ったり聞いたりして嫌な顔もされる。「お客様は神様」の国から来た者にとっては、本当に生意気な店の人が目立った。今は、格段にサービス業の質が上がっているが当時は結構酷かった。

それにしても毎日、街をよく歩いた。何時間も歩いた。心が躍って仕方がない時が多い。探さなくても外人ばかりだ。カネもなく知り合いも少ないが、希望と夢と、そして物事に対するしつこさだけは十分持っていた。

毎日、入金のない一方通行の出費だけの家計簿をつけた。一応、日本では安定したサラリーマン生活をおくっていた自分だが、今は10セントも気になる。

二週間のシドニーの滞在を終え、いよいよ、次の目的地メルボルンに旅立つことにした。どこかに定住しないと友達もできない。メルボルンにはバスの夜行で行くことにした。飛行機なんて使う余裕はなかった。

メルボルンは指圧の先生に紹介されたお弟子さんがいて助けてくれるかも知れないと期待している所だった。しかし、メルボルンに対する知識は皆無に近かった。どんな所なんだろう。

12時間のバスの旅を始めようと、シドニーのバスターミナルで、メルボルン行きの夜行バスを待っていた。不思議と、まったく不安はなかった。33歳にはなっていたが、一人だったこともあるだろう。1985年6月の終わりのことだった。あの頃は、メルボルンに36年も住み続けるなどとは夢にも思っていなかった。

 











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