オーストラリア生活の第一歩は、シドニー舞伎町と言われるキングスクロスから始まった。1985年の6月。

ここの目抜き通りはそんなに長くはないが、当時から表に椅子とテーブルを出しているカフェがあった。今でこそ当たり前の光景だが、36年前は珍しかった。


将来の見通しは全く見えない毎日だったが、とりあえず1日24時間自由に使える日々が与えられた。サラリーマンも辞め、日本語教師になる勉強も終え、日本から離れて形だけは全くの自由。

シャワー、トイレ共同の簡易ホテルに投宿して、朝7時に起きる。そして、シドニーで一番人気のある新聞Sydney Morning Herald を買い、宿から2分も歩かないところにあカフェでおもむろに新聞を見る。読むのではなく見る。そして、カプチーノとトーストの上に目玉焼きがのっている簡単な朝食をとる。因みに、トーストに目玉焼きをのせて、ナイフとフォークで食べるという食べ方は、アメリカのマナーに比して本当に新鮮に思えた。

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月の冬のシドニーだが日が出ると結構暖かい。サラリーマン時代に、こんな余裕を感じことがあっただろうか。誰にも何も言われない時間がゆっくりと流れていく。そして、誰とも話さない日も静かに過ぎていく。へたすると、2日くらい誰とも話さない日もあった。

本当にこの国は自分が思っている、恋している国なのだろうか。こんな自分を受け入れてくれる国なのだろうか。そんなことを確かめる第一歩を、シドニーで踏み出した。日本で知り合ったオーストラリア人達にも会ってみたい。一番大切なのは、この国、ここの人たちとの相性だ。国の美しさなどではない。

こうして、毎日ゆっくりと朝食をとりながら、シドニーでの生活を肌身で感じたかった。あいその良くないウエートレスにも慣れないといけない。英語が通じなくて、何度も同じことを言ったり聞いたりして嫌な顔もされる。「お客様は神様」の国から来た者にとっては、本当に生意気な店の人が目立った。今は、格段にサービス業の質が上がっているが当時は結構酷かった。

それにしても毎日、街をよく歩いた。何時間も歩いた。心が躍って仕方がない時が多い。探さなくても外人ばかりだ。カネもなく知り合いも少ないが、希望と夢と、そして物事に対するしつこさだけは十分持っていた。

毎日、入金のない一方通行の出費だけの家計簿をつけた。一応、日本では安定したサラリーマン生活をおくっていた自分だが、今は10セントも気になる。

二週間のシドニーの滞在を終え、いよいよ、次の目的地メルボルンに旅立つことにした。どこかに定住しないと友達もできない。メルボルンにはバスの夜行で行くことにした。飛行機なんて使う余裕はなかった。

メルボルンは指圧の先生に紹介されたお弟子さんがいて助けてくれるかも知れないと期待している所だった。しかし、メルボルンに対する知識は皆無に近かった。どんな所なんだろう。

12時間のバスの旅を始めようと、シドニーのバスターミナルで、メルボルン行きの夜行バスを待っていた。不思議と、まったく不安はなかった。33歳にはなっていたが、一人だったこともあるだろう。1985年6月の終わりのことだった。あの頃は、メルボルンに36年も住み続けるなどとは夢にも思っていなかった。

 











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